祇園、八坂神社の奥へ進むと東山の山麓を背景に広大な公園が広がっている。明治20年(1887年)、京都初の都市公園として誕生したこの地は、日本最大の三門を持ち家康公の生母・於大の方の菩提寺として庇護を受けた浄土宗の知恩院、七代目小川治兵衛による池泉回遊式庭園や祇園しだれ桜などの名所に囲まれ、今や祇園・東山観光で抜きにはできないスポットである。
八坂神社から円山公園へ入り、知恩院とは反対方向に進むと、景色に溶け込みつつもどこか異質な洋館・長楽館が目に入る。カフェやレストラン、オーベルジュとして営業されているこの館は、明治・大正時代に「煙草王」として名を馳せた実業家、村井吉兵衛(むらい・きちべえ)の京都別邸であり、初代総理大臣・伊藤博文によりその名が与えられた。
村井は明治時代、一代で日本を代表する煙草商人として成り上がった。明治政府による煙草専売のために事業を明け渡した後は、その売却資金で銀行業をはじめ様々な事業を展開し、村井財閥を築き上げた。
しかしながら、その剛腕ぶりにもかかわらず、村井の死後、ほとんどの事業があっけなく縮小し、現在において、村井の財力を目に見える形で伝えるものは、長楽館のみである。
京都で誕生した財閥は如何にして繁栄し、如何にして姿を消したのか。本記事では、村井吉兵衛の生涯と彼の生み出した事業の終焉をお届けする。
明治煙草王の誕生
吉兵衛の誕生
加賀で蚕紙や漆、そして刻み煙草などを商っていた村井家は幕末から明治維新直後の動乱期に京都へ移り住んだ。文久4年(1864年)、村井吉兵衛はその一族の次男として生を享けた。家は生活に困窮していたため、ちょうど後継者不在であった同業の叔父・吉右衛門へ、9歳で養子に出され、明治11年(1878年)には14歳という若さで家督を相続した。幼いころから各地の葉煙草の産地を回り、商人としての腕を磨く中、「小さな煙草商で終わりたくない」という思いを強くしていた。
その頃、政府は1875年より財政確立のため煙草に専売税を課し始めており、煙草商いの環境も変化し始めていた。当時の日本では刻み煙草をキセルで喫う江戸時代以来の喫煙法が主流であったが、欧米から紙巻き煙草(シガレット)がもたらされ、都市部を中心に徐々に受け入れられつつあった。
明治10年代の半ば、煙草行商で資金を蓄えた村井は東京へ出向き、このような煙草商の盛況ぶりを目の当たりにした。当時、東京では岩井松平の岩井商会(「天狗煙草」で有名)や千葉松兵衛の千葉商会(「牡丹煙草」で有名)などが紙巻き煙草を製造・販売で成功していた。彼らの事業に刺激を受けた村井は、販売だけでなく、自らも紙巻き煙草の製造に乗り出すことを決意する。
明治23年(1890年)、村井はついに紙巻き煙草の本格製造に踏み切り、外国製煙草を手本にして日本初の「両切り」紙巻き煙草の製造に成功する。翌年には、それを「サンライス」として発売し大成功を収め、明治27年(1894年)5月には、「ボンサック式巻取機」をいち早く日本に導入し、紙巻き工程を完全自動化。その結果生まれた新製品「ヒーロー」を、実兄・弥三郎とともに設立した村井兄弟商会(合名合資会社)で発売。5年後には年間生産量日本一を達成する大ヒットとなった。明治28年(1895年)には「サンライス」「ヒーロー」を第四回内国勧業博覧会に出品し、有功一等賞を獲得。また明治33年(1900年)のパリ万国博覧会においても、「ヒーロー」は金賞を受賞した。こうして、村井兄弟商会は国内最大手の煙草メーカーとしての地位を確たるものとした。
明治煙草宣伝合戦
村井に先んじて東京で成功を収めていた岩谷商会(天狗煙草)や千葉商店(牡丹煙草)もただでは終わらなかった。岩谷商会による天狗のキャラクターを用いた奇抜な広告戦術は「広告の親玉」と称されるほどであった。村井も負けじと豪華な景品付きキャンペーンや新聞広告など、当時最先端のマーケティングを展開、「煙草王」として名を馳せていく。
両社の宣伝戦略は手法こそ共通点があるものの、面持ちは対照的であった。岩谷松平らは国産葉を用いた「和風煙草」を主張し、赤色パッケージと愛国心を訴えた。一方の村井は「ホワイトカラー」と洋風パッケージを前面に出した。両社はこのパッケージ印刷でも対立する。村井兄弟商会が明治32年(1899年)にアメリカ製の最新印刷機を導入し、京都で東洋印刷株式会社を設立すると、岩谷側も当時最先端の「エルヘート凸版法」による外箱印刷を採用した。大蔵省印刷局のエドアルド・キヨッソーネの下で最新の印刷技術を学んだ二人の技術者・木村延吉と降矢銀次郎は「エルヘート凸版法」による印刷事業を展開しようとしていたが、中々軌道に乗せることができておらず、村井への対抗手段としてこの印刷事業に魅力を感じていた岩谷商会へ外箱印刷の提案をしたのであった
1。木村と降矢はそのすぐ後、この技術をもって東京市下谷区(現:東京都台東区)に「凸版印刷合資会社」を設立(明治41年(1908年)には「凸版印刷株式会社」に改組)。この会社は現在、大日本印刷(DNP)と並ぶ、世界最大規模の総合印刷会社となっている。
煙草事業の売却と事業転換 ― 村井財閥の誕生
煙草宣伝合戦のさなか、政府は煙草を重要な税収減として位置づけ、明治29年(1896年)に葉煙草専売法を公布、明治31年(1898年)に施行し、国内煙草産業の統制を進め始める。民間業者は原料葉の入手など徐々に圧力を受け、業界には不安が広がった。これに対し村井は、米国で買収攻勢をかけていたアメリカン・タバコ・カンパニー(ATC)と資本提携し、村井兄弟商会を日米折半出資の株式会社に改組、規模拡大に打って出た。この動きは日本産業界に大きな衝撃を与え、政府も国内市場への外資流入に強い警戒心を抱いた。
そして明治37年(1904年)、日露戦争開戦に伴う財政逼迫を背景とした戦費調達のため、「煙草専売法」が制定される。この法律により紙巻き煙草の製造から販売までは全て政府(大蔵省専売局)の独占事業とされた、民間による煙草は翌年までに全面停止となり、近代化とともに続いていた煙草の自由競争は幕を閉じた。村井も自身の築いた村井兄弟商会を解散し、約15年に及ぶ紙巻き煙草事業に終止符を打った。
しかし、村井は無手ではなかった。1898年には大阪の紡績会社(日本カタン糸)を買収・改称し村井カタン糸会社(後の帝国製糸)を設立し、専売化の圧力が強まる前から事業の裾野を広げていた。
さらに、政府に煙草業を売却した際、村井は莫大な補償金を手にする。その額、1120万円。この資金を元手に新たな事業分野へ乗り出す決意を固める。民営煙草業者の中には専売制に強く反発する者もいたが、吉兵衛は時代の趨勢を読み取り、速やかに次の展開に動いた。彼は後に「専売制は自分に新天地を拓く機会を与えてくれた」と語った。
金融業への進出と事業多角化
煙草専売法による事業売却で得た資金を元に、村井は積極的な事業多角化を開始した。まず東京・日本橋に資本金100万円規模で「村井銀行」を設立し、金融業に進出。さらに京都では、従来から携わっていた村井カタン糸会社を拡充するため平安紡績を買収し、原糸の自給体制を整え、欧米から機械を導入して繊維事業を強化した。
製糸・金融以外にも、村井は幅広い分野に事業を拡張した。明治末期までに「日本石鹸株式会社」を設立して日用品産業に参入。。さらに、石油採掘事業(村井鉱業)、北海道での製糖事業、製粉(製麺・穀物加工)、海運(村井汽船)、倉庫(村井倉庫)、保険(村井生命・村井海上火災)など、次々と関連会社を設立・買収した。朝鮮半島にも進出し、大規模な農場(村井農場)を経営するなど、その活動領域は国内外に広がる。こうした多角的経営により、吉兵衛は「村井財閥」と呼ばれる一大企業グループを形成し、これが日本の新興財閥の一角として台頭していった。大正期の第一次世界大戦による特需景気も追い風となり、村井財閥はさらなる発展を遂げた。
社交界での活動と長楽館
事業拡大に伴い、吉兵衛は政財界や社交界にも強い影響力を持つようになる。彼は東京と京都の両方で経済団体に関与し、日本赤十字社の常議員を務めるなど社会事業にも携わった。大正4年(1915年)には勲三等瑞宝章を授与され、実業界での功績が顕彰された。
明治42年(1909年)には京都に自らの成功を象徴する壮麗な邸宅を築く。英国人建築家J.M.ガーディナー設計による洋館で、国内外からの賓客を盛大に迎え、大正天皇の即位礼のために来日したロシア大公やイタリア公使の宿舎にも充てられた。竣工に際しては親交のあった伊藤博文が招かれ、彼により「長楽館」と命名された。
明治期の来賓芳名録には北白川宮・賀陽宮ら皇族、伊藤博文、井上馨、西園寺公望、渋沢栄一、大隈重信といった政財界の大物、早稲田大学総長の高田早苗らの名が並ぶ。長楽館は京都社交界の一大舞台として、吉兵衛の人的ネットワーク形成に大きく寄与した
3。
大正2年(1913年)には日本の長者番付にも名を連ね、吉兵衛は全国的に知られる存在となっていた。大正8年(1919年)には東京・永田町に、長楽館とは趣を異にする純日本式の大邸宅(約5,000坪)・山王荘を構えた。
村井財閥の終焉と遺構
第一次大戦後の日本経済は厳しさを増し、村井財閥傘下の村井貿易も、取引の失敗で大正9年頃に倒産。財閥内部に陰りが見え始める。とはいえ村井本人はなお健在で、周囲の人々は「煙草王」のカリスマ性に期待を寄せ続けた。しかし、大正15年(1926年)1月2日、東京にて村井は急逝。享年63歳。
翌昭和2年(1927年)3月14日、第52回帝国議会貴族院予算委員会、関東大震災による震災手形処理法案の審議中のことであった。
東京渡辺銀行がとうとう破綻いたしました。
片岡直温大蔵大臣による失言が新聞報道されると、不安になった預金者による銀行取り付け騒ぎが発生。昭和金融恐慌の始まりである。
東京の中堅行であった東京渡辺銀行と系列のあかぢ貯蓄銀行は3月15日に取り付けに遭い休業。次いで、3月19日には中井銀行が休業。そして、3月22日には村井銀行を含む東京の四行と横浜の左右田銀行が相次ぎ休業した。これら五行は東京・横浜のClearinghouse(手形交換所)加盟行であったため一般預金者の不安をさらに煽り、地方銀行にも動揺が波及した。預金者保護のため設立された昭和銀行により、村井銀行は昭和3年(1928年)に吸収合併され
4、村井財閥の中核は姿を消した。これにより財閥は事実上崩壊し、一代で築かれた巨富も霧散した。
令和に残る村井吉兵衛の遺構
村井銀行を吸収した昭和銀行は昭和17年(1942年)に役目を終え、昭和19年には安田銀行に合併。戦後の財閥解体で昭和23年に富士銀行と改称し、のちのバブル崩壊による第一勧業銀行との合併を経て、現在はみずほ銀行である。
大正2年(1913年)竣工の村井銀行東京本店の地には現在「日本橋御幸ビル」が建ち、社屋の一部が現存している。三菱UFJ銀行日本橋中央支店ビルの一角として往時を偲ばせている。
一方、京都にあった三つの支店は建物自体が残っている。五条支店は「京都中央信用金庫 東五条支店」、祇園支店は菓子店「CANDY SHOW TIME 京都祇園店」
5、七条支店はレストラン「きょうと和み館」
6と、いずれも村井家のお抱え建築家であった吉武長一の遺構として、現在のそれぞれの役目を果たしている。
レストラン「きょうと和み館」として営業される七条支店
村井財閥の多くの事業は記録の追跡が困難だが、村井倉庫は京神倉庫として今も総合物流会社として営業を続けている。また、煙草専売法以前からパッケージ印刷のために京都に設立されていた東洋印刷株式会社は、専売局の施設を経てJT京都印刷工場として受け継がれている。
財閥崩壊に伴い、村井家の資産は多くが処分された。東京・永田町にあった村井邸・山王荘は東京府に売却され、跡地には府立一中(現・東京都立日比谷高等学校)が建設された。邸宅の石門は現在も同校正門として残され、美術品倉庫も資料館へ転用されるなど、往時の面影を伝える。
長楽館は村井銀行が閉鎖した昭和2年(1927年)に売却。その後、複数の手を経て、戦後の昭和29年(1954年)に、土手富三氏が取得し「ホテル長楽館」としてホテル・レストラン・宴会場などに転用された。荒廃していたが30年余りにわたり大規模に修復、保存整備が進み、昭和61年(1986年)には建物と調度品一式が京都市有形文化財へ登録、平成25年(2013年)には庭園も「京都を彩る建物や庭園」に認定された。令和6年(2024年)には国の重要文化財に指定された
7。
最後に
京都の貧しい煙草商の家に生まれた村井吉兵衛は、その商才によって日本一の「煙草王」へとのし上がり、政府に煙草事業を売却した後も、金融を中核として規模を広げ、一代で巨万の富を築いた。しかし、その栄華は村井の死後あっけなく姿を消す。平安遷都以来、京都の街は平安遷都以来、幾度となく盛者必衰を見てきたが、村井の栄華もまたその一例にすぎなかったのだ。
長楽館は、その面影を今に伝えている唯一の建物である。静かに時を重ねるその館は、移ろいゆく京の歴史の中で、今なお村井の伝説を語り継いでいる。
注釈・参考文献