こんにちは!六原雅です。前回に引き続き、後院通が斜めである理由を探って参ります。前回の記事は
こちらから。
前回、後院通が敷設されたのは、京都市電の千本大宮線の開業のためだとわかりました。前回、書くのを忘れていたのですが、後院通で見つけた2つの錆びついたポールは、京都市電の架線柱だったのですね。
千本通、後院通、大宮通で連続的な一本道に見えるといいうのも、もとは一つの路線、千本大宮線のために作られたからでした。
さらに前回は、わざわざ千本大宮線と、千本通か大宮通一本に路線を固めなかった理由として、千本三条に軒を連ねた材木商の反発をご紹介させていただきました。
しかし、材木店が反発したという公的な報告が見つかっておらず、この説はそこまで有力ではありません。話としては面白いのですがね(笑)。
説2: 集客が見込めない
もう一つの説は、京都市が千本三条以南の集客が見込めないと判断したからというものです。私はこの説のほうが有力だと考えております。
千本大宮線の開業当時、後院通一帯は田舎だったというのは覚えていらっしゃるでしょうか。
京都市は、力があったとはいっても財政は厳しい状態でした(あれ?今も同じじゃないか?)。大事業とはいえ、限られた予算で赤字を生むような路線を建設するわけにはいきません。そのため、わざわざ乗客のほとんどいないであろう田舎道に鉄道を通すメリットはないため、後院通で東側に逸れたと考えられます。
また、これは私の持論で、なんの根拠もないのですが、集客が見込めない理由として、すでに千本三条以南は京都鉄道(京都市電や後述の京都電気鉄道とは別の私鉄)が敷設、千本大宮線開業当時には国鉄に編入されていた山陰線京都線(京都駅 - 園部駅)が既に開業しており、千本通から南伸させると、国鉄京都線と競合するから、というのが挙げられます。これは現在のJR嵯峨野山陰線です。
西郷菊次郎市長が内大臣に「京都市営電気鉄道敷設の特許」を出願したのは1907年の6月25日、京都鉄道が国有化されたのは同年の8月1日。京都市電が開業したのは1912年であり、その前年には国鉄京都線の大宮駅が廃止されております。
筆者の推測に過ぎないということを強調しますが、国鉄が京都の外側を走り、京都市電が内側に路線網を築くということが内々に決められたのか、あるいはお互いに空気を読みあったのではないでしょうか。政治的なやり取りは、筆者が鉄道の歴史に詳しくないために、残念ながらテキトーなことしか述べられませんが、もし本当であれば、だいぶすっきりしますね(ロマンロマン)。
まあ、いずれにせよ、すでに国鉄線が通っている状態で、千本線を南伸させるような、すなわち国鉄路線と競合するような計画は、内務省に却下されるでしょうから、国鉄線とそこまで競合しない千本三条まで通して、それ以南は国鉄線を回避するようにカーブさせたと考える程度なら、妥当でしょう。
後院通とその周辺
出典:Google Mapsに基づいて作成
千本三条より北側で回避してもいいじゃないかと思う方もいらっしゃるでしょうが、ここなら国鉄二条駅で乗り換えがし易いですし、何より北側には二条城や神泉苑がございます。
もう一つ面白い説
もう一つ重要な意味として、私は市電の車庫の設置があったと思います。
市電開業にはそれだけの車両を収容する車庫が必要になります。第一期敷設計画でそれだけの車両を収容できる土地が他にあったでしょうか?
京都市電が開業する予定の路線の多くが、商人や貴族の邸宅、諸藩の別邸が軒を連ねており、大規模な車両基地のための土地はそう簡単に手に入らなかったように思います。そのため、路線の開業予定地の周辺で、比較的都市部から離れていた、(田舎の)壬生村に車両基地を設置したのでしょう。
壬生車庫は、京都市電廃止に伴い役目を失い、現在は中京警察署となっています。しかし、近くに壬生車庫前というバス停が残っており、その遺構を感じることができます。
すぐ近くに中京警察所(かつての壬生車庫)がある
気になること
ここまで、千本大宮線開業の経緯をお話して参りました。後院通に関する疑問はほとんど払拭できたものと思います。京都市電はモータリゼーションによる逆風もあり、都市交通の機能のほとんどが市バスに打って変わり、1972年には全線廃止となりました。現状、かつての市電の面影は、京都の主要通りからしか感じることが出来ません。それも、道の形という控えめな特徴から。
ここで、いくつか気になる点がございます。
1つ目は、京都市電四条線についてです。開業当時の1912年には既に、京都電気鉄道堀川線があり、四条堀川 - 四条西洞院間が競合しております。もっと言えば、京都市電開業前から、京都電気鉄道会社が京都の大域に路線網を気づいており、果たして京都市電を新たに開業する必要があったのかと疑問に思います。国鉄とは競合しないように配慮し合ったのに、京都電鉄とは話し合いなどなかったのでしょうか。
実は、京都電気鉄道は、京都市電全線廃止の1972年の前、もっといえば1920年までに消滅しております。「日本最初の電気鉄道」として栄華を誇った鉄道会社は完全に姿を消しました。その理由とは?
2つ目はもう少し、軽い疑問です。もう一度、1912年における京都市電の路線網の画像を貼りますが、後院通ほどではないですが、不思議とカーブしている道に気づきます。
1912年の京都市電
出典:Google Mapsに基づいて作成
丸太町通と今出川通が西から東に向かう途中で、南側に垂れておりますね。上の画像だと分かりにくいですが、東本願寺の東側に面する烏丸通(かつて京都市電の烏丸線が通っていた)も同寺の前で、東側にカーブしています。
これらの道のカーブは後院通と同じように、京都の歴史について、何かを語ってくれそうですね。
当サイトの京都カテゴリーは、六原雅がほとんど無計画に記事を投稿しております。次回以降、「京都市電と京都電鉄」、「京都市電があった道路のカーブ」について、まとめていくつもりですが、いつになるか分かりません。今年中に書くことにはなると思いますが、気長にお待ちいただければと思います。(おそらく次回は鉄道の話題ではないと思います。)
後院通だけで三本も記事ができました笑。
以上、新シリーズ、「京都の斜め通り」の第一回目でございました。次回お楽しみに。